柴田宏明プロデューサー問題点まとめ②女性らしい主人公が描けない(だから、やたらと『愛』という言葉を押し出す)


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第二章です。
②女性らしい主人公が描けない(だから、やたらと愛を押し出す)


ドキドキ!プリキュアは、なぜ「愛」をやたらと作中で押し出すのか? 
これは昨年度からの疑問でした。
これは僕の単なる推測なのですが、少なくとも2014年7月現在の彼の作品を見る限り、柴田氏は女性らしい性格の主人公が作れないことに起因するのではないかと考えています。
ここで、女性らしい主人公とはどういったものか、定義づけをさせていただきます。
音吉さん家のとある本(※『科学でわかる男と女の脳』。ただし、内容が若干フェミニズム的であるため、すべてを鵜呑みにしないように!)には、女性的な人格の特徴としてこう書いてありました。
・他者に対して、無意識的に共感する能力(※もちろん個人差はあります)
共感の例は、
・お母さんが泣いてる子供に「どうしたの?」と囁きかける
・振られた友達に「かわいそう・・・!」と泣いてしまう      などが挙げられます。
ここでは、「他者への共感」を中心として、これまでの鷲尾P・梅澤P・柴田Pの、各シリーズのプリキュア主人公が女性的かどうか、振り返ってみましょう。


A.鷲P作品の場合
たとえば鷲尾P作品ですと、なぎさ、咲、のぞみの三人が各作品の主人公です。
なぎさはボーイッシュな外見ですが、案外(失礼)傷つきやすい心を持ち、憧れの藤P先輩に恋する場面もあるなど、普通の女の子として描かれています。
咲は少なくとも男前とは殆ど言われませんし、のぞみは典型的なドジっ娘キャラが強いです。(勿論、全員、戦闘時は凛々しいですが。)
いずれの主人公達も、他者を思いやる優しさと悪へ怒りを向ける面が見られました。とりわけ、のぞみは他者の夢を応援しようとする面が見られました。これは他者への共感がなければできないことでしょう。
すなわち、彼女等に関しては、「他者への共感」がしっかり描けていると言えると考えられます。


B.梅P作品の場合

梅澤P作品ですと、ラブは『ラブ兄貴』とか呼ばれますがその実非常に母性的且つ傷つきやすい面が見られます
(むしろ、美希たんのほうが男らしい気がします)。また、キュアピーチは「愛」を名乗りの際に叫びますが、それ以外の場面で彼女が「愛」という言葉を使うことは、殆どありませんでした。
つぼみは少々好奇心旺盛な男の子っぽい面もありますが、「○×さんの気持ちを利用するなんて! 私、堪忍袋の緒が切れました!!」と何度も口にするなど、他者への共感という女性的な側面がしっかり見られます。
響は外見こそツリ目の快活な少女に見えますが、落ち込みやすかったり脆い面が多かったり他者への思いやりが強かったりと、良くも悪くも女性的なメンタリティでした。
みゆきも響同様、繊細な面が多く、他者への思いやりが強かったです。
梅澤Pのプリキュア主人公達も、しっかり女性らしいメンタリティを持っていると言えるでしょう。


C.柴田作品の場合
翻ってマナとめぐみんはいかがでしょうか?
マナはマナ王子とか呼ばれ、何かにつけてカッコいいとか言われていました。一部視聴者にも、作中の人からも。また、彼女がリーダーとして仲間を引っ張る場面が殆どでした。これらの特徴は、彼女のメンタリティが男性的であることを示唆しています。
また、何よりも彼女には他者への共感が明らかに欠けている場面がありました。
「真琴の気持ちを分かってなかった」と吐露する場面があります。この他にも、レジーナの気持ちを無視して一方的に「愛を取り戻そうよ」と言いよる場面や、純の気持ちに気付かない場面など、枚挙に暇がありません。
この事からも、マナには女性的なメンタリティを持つとは言い辛いと考えられます。その代り、彼女はやたらと「愛」を連呼します。
めぐみはそんなに「愛」連呼はしないですし、ブルー兄さんに惹かれるなど、マナよりかはまだ女の子らしい面があります。ですが、キュ荒ブリーと揶揄されるような戦闘面での暴れぶりは男性的なイメージを強く補強します。
更に誠司には「相手の立場になって考えろ」と、幾度か忠告されています。
すなわち、めぐみにも他者への共感が欠けているといえるでしょう。
この二人を仮に男性キャラに置き換えても違和感は少ないはずです。(ブルー兄さんへの恋慕はノーコメントでw)


以上のことから、
鷲尾P&梅澤P作品の主人公達は母性や女性らしさ、愛情といった要素が表現できておりわざわざ「愛」という言葉を押し出す必要性がなかったのだと言えるでしょう。
言い換えれば、殊更に「愛」を言葉で強調する必要性が薄いと言うことです。
逆に、柴田P作品で主人公が「愛」を強調するのは、彼女達のキャラクターが男性的である事を補うためにに必要なのかもしれません。
言い換えれば、柴田Pには女性主人公の造形スキルが足りないとも言えるでしょう。
(※これまで彼が担当した作品は、「デジモンセイバーズ」や「ONE PIECE」など、男性が主人公のものばかり)
しかし、「愛」「愛」と連呼すると、嘘くさいと(少なくとも日本人は)感じてしまいます。実際、ドキプリの愛は一部視聴者にとっては嘘くささが垣間見えると言った意見もありました。
これを防ぐには鷲尾梅澤両氏のキャラ造形を見習うべきなのでしょうが、果たして柴田氏はいつそれにお気づきになられるのでしょう?

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柴田宏明プロデューサー問題点まとめ①「作品に明確な信念が感じられない」


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第一章です。
①作品に明確な信念が感じられない
まず、柴田P作品の問題点を考察する前に、それ以前のプリキュアシリーズについて振り返ってみましょう。
過去のプリキュアのプロデューサーの基本方針および作品のテーマを挙げるとするならば、次のようになっていました。
鷲P⇒「女の子だって暴れたい!」
初代⇒「同上」
MH⇒「想い運命を背負った少女(=ひかり)の物語」
SS⇒「花鳥風月」
5⇒「夢と現実(に立ち向かう強さ)」

梅P⇒「敵との対立・和解」
フレ⇒「家族、ディストピアからの解放」
ハト⇒「花、人の心」
スイ⇒「音楽、対立と和解」
スマ⇒「本当の笑顔とはなにか」

梅澤プリキュアシリーズは、ハト以外は基本的に敵(幹部)と和解するパターンが非常に多いです。スイに至っては、敵の親玉さえも和解に成功するという偉業を成し遂げました。
こうした作風が多い傾向については、NS2における梅澤氏のインタビューから伺えます。


(以下、http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20130315/E1363286951371.htmlより抜粋)
(中略)
───そこは、いちばんうかがいたかったことの一つです。こんなに大勢になる前、最初に手がけた「プリキュア5」の映画「鏡の国のミラクル大冒険」2007年)から、梅澤さんの「プリキュア」ってじつは戦ってないですよね。敵に勝つというよりも、結局は、許しであったり、共生の選択であったり。敵っていうのはわかりやすく外側にあるものではなく、自分の一部なんだよというメッセージが強い。
(中略)
梅澤  それは私の中でのターゲットの問題ですね。誰のために作っているのか、誰が見るのかっていうことが一番重要ですから。「プリキュア」のメインターゲットの3歳から6歳の女の子にとって一番の敵は、たぶんお母さん。「ちゃんと食え、はやく着替えろ、はやく寝ろ」と自由を阻害してくる。幼稚園の先生も同じですね。あとは友だち。おもちゃ取り上げたり、意地悪してきたり。邪悪な敵組織なんていないじゃないですか。そこに向かってプリキュアが「自分たちに害をなすものは排除するんだ!」と必殺技で容赦なく攻撃して消滅させる様子を描くのは、私にはかなりグロテスクなんです。
───憧れの存在であるプリキュアから「お母さんも先生も友だちも排除していいんだ」ってメッセージを受け取ってしまうことになりかねない。
梅澤  うるさいけどお母さんの言うことはもっともだし、自分が悪かったんだと気づいて謝ってほしい。理不尽な意地悪をしてくる友だちを「二度と遊ばない」と排除するんじゃなくて「それは悪いことだよ」「あ、そうか、ごめんなさい」「じゃあまた一緒に遊ぼう」って会話をきっかけに仲良くなってほしい。おたがい話せばわかることじゃないですか。で、メインターゲットの子どもたちのまわりで起こっていることを、プリキュアたちにやらせているだけなんですよ。
───そのなぞらせかたがすごくていねいですよね。だから単純な「お説教」ではなく、大人が観ても「ドラマ」として響くものになっている。
梅澤  もう一つは、未就学児を一人で映画館に行かせるわけにはいかないから、親も一緒に行かざるを得ない。そこで親が退屈したら「もう映画より遊園地にしようよ」ってなりかねない、それは困る(笑)。「プリキュア面白かったね!」って笑ってる子どもが見上げたら、お父さんお母さんがボロ泣きしてるってのが私の理想。
(抜粋終了)


こうした氏のお考えについては、「甘い」とか「理想論」とか考える方もいらっしゃるでしょう。ぶっちゃけ私もそうです。
しかしながら、その理想論を描くのは子供向け番組の形の一つとしては有りだと思います。
そう言う意味で、私は彼のプリキュアシリーズに対する制作姿勢に対し、すこぶる敬意を表したいと考えています。
翻って、柴田氏は如何でしょうか?
柴田⇒「愛」(2014年現在の暫定)
ドキ⇒「博愛」
ハピ⇒「(恋)愛、幸せ」

では、「愛」とは具体的に何か? ご存知の方は、まわれめまわらないことさためらわないことさ」以外の回答をお願い致します。
「愛」と言う言葉は、如何様にも解釈できる曖昧なモノです。
真っ当な博愛も、恋愛感情も、家族愛も、ヤンデレさえも、広義で言えば全て愛と言えるでしょう。言い換えるならば、個人によって如何様にも解釈できる危険な用語とも言えます。
また、何処かの評論で読んだことがありますが、海外の恋愛映画とは異なり、日本の恋愛映画では「愛してる」という単語は殆ど使わないそうです。
その評論によりますと、日本人はそう言った言葉をウソ臭く感じ、行動で示すことを好むからだそうです。
だからこそ、「愛」をテーマにするならば、作中で「愛」の明確な定義づけが必要なのですが、2014年7月現在、現状ドキもハピもそれに当たる具体的な解説がなされたことはありません。
反対にフレプリとスマプリでは、それぞれ『幸せ』『笑顔』という一見曖昧にも取れるテーマについて、具体的に示しています。

フレ:『幸せ』=仲間や家族と共に日常を歩んでゆく
スマ:『笑顔』=みんな笑顔でウルトラハッピー、「物欲による幸福」の否定

今のところ、柴田氏の作風は青臭い理想主義を描いたものでもなければ、シビアな現実主義的でもなく、抽象的なお花畑のように思えてなりません。
それが、ドキのテーマ「愛」に集約されているように思えます。

ふたご版ドキドキ!プリキュアとハピネスチャージプリキュア(前半)、アニメとの差異まとめ


※私が知る限りの内容しか書いておりませんので、悪しからず。
追加情報をご提供いただければ追記させていただきます。
また、スマ以前のふたご版プリキュアシリーズは未見ですので、情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。

上北ふたご先生と言えば、なかよしでプリキュアシリーズのコミカライズをなされていることで有名です。
が、その内容は月刊誌故か、テレビとは大きく異なる場合があります。
本記事では、私の知る限りのテレビとの差異をまとめさせていただきます。
なお、当ブログに情報提供をしていただきましたtamai-kei様には、この場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
①ドキドキ!プリキュア
5話編

→だいたいテレビと同じなので略。
10話編
→真琴の歓迎パーティをするマナだが、真琴に嫉妬してパーティを飛び出す六花。
そんな彼女を「ダイヤモンドを傷つけられるのはダイヤだけ」と諭すありすであった。
16話編
→レジーナは普通にジコチュー化などの悪事をしてない、敵側の娘と言うだけの存在。そのため真琴とレジーナの和解もすんなり。 最後は真琴の舞台を見るマナとレジーナたちで〆。
22話編
→だいたい本編と同じなので略。
23話編
→落ち込むマナを美味い物食わせて励まそうとするが、マナは見向きもせず、強くならねばと特訓を一人で始める。
そんな彼女を、「仲間を見向きもせずに強くなれるはずがない」と、エースが叱責し、マナは改心。あとは戦って終了してエースの正体バレで次回。
勿論、赤子妖精の洗脳などは存在しない。あと、変身ラビーズはエースによって全員分取られました。
28話編?
→特訓する一同だが、ほぼふたご先生のオリジナル。ありすの別荘で合宿する話である。
亜久里は、テレビ版とは性格がかなり異なっており、無理して背伸びする小学生と言った感じである。
そんな彼女を暖かく支えるありすとの交流を描いたお話。
余談だが、ありすは漫画版だと、仲間を陰ながら支え諭すと言う、チームのお姉さん的役割が強調され、漫画版での存在感は強め。
ビューティコンテスト編
→ふたご先生のオリジナル。コンテストに忍び込んだマーモを止める話。
35話編
→妖精感謝祭ということで、それぞれのパートナーと遊ぶ話。テレビ版とは大幅に異なり、六花とラケルに焦点が当てられている。
途中で衝突するも、最後は足をくじいた六花をイケメン高身長となったラケル人間態がお姫様抱っこする話。
クリスマス会編
→テレビ版とは異なり、マナのレジーナに対する想いが強調されている。
その他
→なんかキュアハートたちがキモ赤子の魔法で赤ん坊にされてキンジコ様が親子愛を取り戻すとかそんな話が最終回らしいです(未見)
あと、単行本の最後のカットには歴代プリキュアが並ぶ絵もあるとか(未見)
②ハピネスチャージプリキュア!
1話編

→だいたいテレビと同じなので略。ナマケルダもこの話から登場。
4話編(未見・tamai-kei様より情報提供いただきました)
→ひめが学校で友達作りをするが、物で釣ろうとするという人として問題ある行為をする話。
テレビ版よりもひめの性格が世間知らずで我儘なお嬢様っぽくなっており、問題点が強調されている。
また、リボンもやや性格的に問題あるキャラとなっている。ナマケルダ登場。
3話編(tamai-kei様より情報提供いただきました)
→誠司とめぐみが恋愛関係にあると勘違いし、神様にばれたら友達でいられなくなると焦ったひめが、なんとか隠蔽しようと奔走する話。テレビ版とは大幅に内容が異なる。
オチはテレビ版とほぼ同様だが、ひめがブルー兄さんの核心に迫る発言をしたりと、伏線を打ってあるのが細かい。
15話編(未見・tamai-kei様より情報提供いただきました)
→ファントムが初登場する話。大まかな流れはテレビ版とほぼ同一だが、キュアプリンセスが救援に入る点がテレビ版と異なる。救援はブルー兄さんでした。
なお、キュアハニーは、漫画版ではこの時点だと未登場である。
11話(+16話)編?(tamai-kei様より情報提供いただきました)
→上記の話の続き。且つキュアハニーが初登場する話。
めぐみが落ち込む神様を見て自分も落ち込み失敗続き。そんな彼女を「人を励ますなら自分も元気にならないと」、そう励ますゆうゆう。
ハチミツは殺菌作用があると言うトリビアも。ナマケルダも出現。
20話~22話まとめ編(tamai-kei様より情報提供いただきました)
→基本的にはこれらのお話の総括版。
秘密を話そうと相談するひめ達の話をめぐみ達に聞かれてしまい、もう嫌われたと逃げ出したひめ。その時フォーチュンと出くわすが、オレスキーの罠に仲良くはまってしまう。その際時間制限つきの二人三脚ゲームを仕掛けられる。
息が合わない二人。当然一向に進まない。その際にひめはめぐみ達の、いおなは姉の幻影を見る。同時にひめはいおなの過去を知り、幻影に苦しむフォーチュンを頭突きで吹っ飛ばし、彼女に謝罪して和解。
改めてコンビを組み、ゲームに勝利!!
以上です。今後のハピプリ漫画版に関しましては、別記事に追加いたします。

れいかとマナ、なぜ(俺の中で)差が付いたのか、考えてみた


ちょっとドキに関して言い残したことがあったので、少しずつ語ってみます。
今回は、スマイルプリキュアの青木れいかと相田マナを題材に取り上げて、一筆奏上したいと思います。
二人とも設定面で共通するのは、
・勉強もスポーツもできる
(作中描写を見る限り、マナの方は、勉強はそうでもないですね。少なくとも 六花>マナ は確実です)
・皆に優しく困った人を放っておかない
・作中でもみんなから好かれている
いずれも、少なくとも作中の基本設定だけ見れば『完璧超人』と言う言葉が当てはまるかと思われます。
・・・月並みな表現ですが。
しかし、私はれいかは好きになれてもマナは好きになれませんでした。
pixivのイラストにて、名前で単純検索をかけても、れいか>マナで、200件ぐらい件数に差が見られました。
(*但し、作品の放送年の差などを考慮すると、必ずしも単純に『pixivの件数=人気』とは言い難いことを付記させていただきます)
なぜ同じ『完璧超人』なのに、私はれいかが好きになれても、マナはそうならなかったのか?
あるいはなぜれいかの方がより多くの人に親しまれた(可能性がある)のか?
ちょっと考えてみました。
勿論、れいかは準主役キャラです。
彼女と主人公キャラを比較する事自体が、ナンセンスなことだとは承知しています。
ですが、自分自身の疑問を氷解させるため、考察を行いました。
その結果、次の3つが明確な差異を分けたのだと、私は考察いたしました。
①キャラの清潔感
*この辺はビジュアルの問題ですので、人それぞれ好みがあることをご承知の上で、ご覧ください。
古来、日本の貴族の女性やお姫様は、長い黒髪の着物を着た人が多いものでした。清少納言や紫式部(この人達お姫様じゃないですけどw)、甲斐姫など、歴史上の女性の肖像画を見れば、自ずと理解できることでしょう。
*下記のような髪型もありますが、此方では除外いたします。

(wikipediaより引用)
恐らく日本人は、『長い黒髪=上品、気品がある』といったイメージを、感覚的に持っているのだと思われます。
一般的に、人は礼儀正しい人物や上品な人物を好む傾向があります。
選挙等でも、庶民的なイメージのある人より、品のある(ように見える)人が勝利する傾向があると言われています。
勿論、マナの見た目が下品と言うつもりはありません。
ですが、キャラデザを一見した場合、多くの人は、感覚的にれいかの方がより上品に見えるだろうと考えられます。
可愛く写ってる場面から取りました。 ふつくしい・・・
②義憤の差
この二人の一番の違いとして、「他人を苦しめる人に対し、義憤を抱くかどうか」(分かりやすい義憤を見せるかどうか)が挙げられます。
例を挙げましょう。
キャンディを役立たず呼ばわりしたオオカミさんに、「お黙りなさい!」と怒ったれいか。
ごめんなさい・・・
一般人がジコチューにされても、家族が酷い目に遭っても、泣くことはあっても、そんなあくどい事をしでかした人達に怒りすらしない、少なくとも分かりやすい怒りは見せないマナ。
果たしてどちらが好感を持てるでしょうか?
私は誰かのために怒れない人よりも、小さい子をからかう中二病感染者に「コラ!」と言える人の方が、まっとうだと思います。
③成長描写
作中描写を見る限り、れいかの話の主題は『自立した意思を持つこと』だったと思われます。
言い換えると、『周りから言われただけ(大人にとって都合のいい)良い子』から一歩踏み出すこと。
とも言えるでしょう。
「やめます!」回や43話などがその代表的な例と言っても良いでしょう。
スマプリ43話は、れいかが「大人にとって都合の良い子」から抜け出すことが主題であり、留学はそのための題材として挙げられただけに過ぎないのでしょう。
また、常に自分が正しいのか悩む場面がありました。生徒会選挙回や「やめます!」回などがその例です。
前文と矛盾するかもしれませんが、本編で描かれたれいかは、決して設定で書かれたような『完璧超人』ではありませんでした。
時に悩み、時に壁にぶつかり、変化してゆく場面が描かれる、非常に人間的なキャラでした。
泣いちゃうれいかさんかわいい  れいか「私プリキュアやめてモーニング娘に入ります。えっ、ダメですか?」
ちなみに留学回は、れいかが留学を断ったことを批判する声もありましたが、「まるで成長していない・・・」*に関する逸話を見れば、「留学=いいこと」という認識は必ずしも正しいとは限らないとご理解いただけることでしょう。
そもそも、留学して必ずしも上手くいくとは限らないわけですし。
(*スラムダンクの安西先生は、嘗てのバスケの教え子と対立し、その後教え子は留学したが上手くいかず、悲惨な末路を迎えた過去を持つ。詳しくはスラムダンク単行本22巻を見てね!)
しかし、相田さんに関しては如何でしょうか?
私が見た限り、悩む描写は殆どありませんでしたし、23話についても単にレジーナが攫われて落ち込んでいただけであり、別に何かにぶつかって悩んでいたわけではありませんでした。
少なくとも、作中で明確に成長や変化が見られた描写はありませんでした。
そもそも相田さんは、「(大人から見れば)とても良い子」ではありましたが、33話のありす回を除けば「(人間らしいという意味で)いい子」ではなかったように思われます。
従来のプリキュアで描かれていた「いい子」って、「友達や他人に親身になれる子」、と言うのが定番でした。恐らくこの認識は誤りではないと思われます。
ですが、相田さんが本当に人の気持ちを察することができるなら、(一応ギャグ描写とはいえ)落ち込んだ友達をお面かぶって励ますような無神経なことはしないでしょう。(その後謝るならまだしも、そのことを謝ってませんし)
これ殴ってもいいかな?
人とは時と共に変化していく者であり、時に険しい道も歩み往く者。
苦悩や成長がない人間に、憧れはしても共感はしづらいでしょう。
どこぞのおやっさんも仰ってましたね。
『Nobody’s Perfect』と。
これら3つの観点から、同じ完璧超人(と言われている)キャラでも、相田さんよりもれいかのほうが好感がもてるのだと考えられます。
以上、考察もどきの駄文でした。
内容に関して突っ込み所等ございましたら、容赦なくコメント戴ければ幸いです。

とあるドキのキャラについて書いてみる(+α)


これを書かずにはいられませんでした。と言うか、書き忘れてました。
(執筆日が2014・2・1とありますが、これは記事整理の都合上です。実際は2014年6月に執筆いたしました。)
ドキドキ!プリキュアに登場する最低最悪のキャラの事を。
該当作品のファンの方は、か~な~り批判的な内容ですので閲覧をお控えください。
以下、続きです。

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