柴田宏明プロデューサー問題点まとめ⑧主人公にヒーローとしての魅力がない


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第八章です。
⑧主人公にヒーローとしての魅力がない
さて、これまで柴田Pについて七つの問題点を指摘してきましたが、とうとう肝心の主人公についても、改めて書かねばならない時期に来てしまいました。
今回取り上げるのは、
・相田マナ
・愛乃めぐみ

この二人です。
問題点①周りの事を考えずエゴを貫こうとする
「何がエゴやて!?」と思われる方もいらっしゃるでしょうから、解説いたしましょう。
まず、相田さんについて。(苗字で呼称します。名前で呼ぶほど愛着が持てないので)
この方はレジーナレジーナと、やたらとレジーナを救うことに拘泥します。
の割に、レジーナがどれだけ悪事を犯そうとそれを咎めることはせず、あまつさえ自分の友人である真琴の知り合いがレジーナに被害に遭わされてるにも関わらず、安易に「お友達」になる始末。
そして、作中において一度もレジーナの悪事をやめるよういうことはありませんでした。
まるで犯罪者の母親が「あの子は、ホントはいい子なんです!」と庇うかのようです。
次に愛乃めぐみについて。
この人も「幻影帝国を救いたい」とか、寝ぼけた事を仰っておりました。さすが勉強ができないだけはあります(←関係ないだろwww)。
但し、今回は一応ブルーの気持ちを思いやったという面もありますし、且つ毎度誠司などに問題点を指摘されて反省する面が見られる辺り、『一応』相田さんよりはまだマシでしょう。
実際、いおなと対立した際は、ある程度は自身の主張に反省が見られます。(もっとも、その場合いおなの方が寛大にも理解を示したおかげで許してもらえたんですけどね)
しかし、幻影帝国の連中は明らかに自分の意志で悪事を行ない、結果として世界中に被害をもたらしています。
レジーナ以上に救われる価値はありません。
(まぁ今年もどーせ、「ディープミラーが黒幕でしたー♪ 洗脳してました~♪」とかやって、幻影帝国側を無罪放免にするつもりなんでしょうけど)
「愛で敵を救おうとすることの何がエゴなんだ? フジャケるな!」
と反論される方もいらっしゃるでしょう。
このふたりの問題点は、その愛と言う名の「エゴ」を貫く上で何一つリスクを払っていないことにあります。彼女らの主張は、被害者や仲間の気持ちを考えない、完全な「エゴ」に過ぎません。それは上でさんざん申し上げてきました。
通常、ヒーロー番組で主人公が周囲を無視してエゴを貫いた場合、どんな理由があろうと、それは大抵悲惨な結果またはそれ相応の代償を払うことになります。
『ジュウレンジャー』では、ゲキが兄を倒すことを躊躇ったがために、ドラゴンシーザーが大暴れしました。
『仮面ライダー BLACK』では、光太郎が非情になりきれずにシャドームーンを倒せなかった結果、日本はゴルゴムに征服されました。
『龍騎』では、己が願いのためにライダーの戦いに参加したものは例外なく死を迎えました。
『555』では、エゴを貫き周りを傷つけた草加雅人は、最終的に(首の骨が折れる音)。
『剣』では、剣崎が始の封印を躊躇ったため、ダークローチが少なからずの人々に被害をもたらしました。
『ダブル』では、翔太郎がフィリップの喪失を恐れて変身を躊躇した結果、仲間達がユートピアの被害に遭いました。
『ウィザード』は、コヨミを救うことに囚われ周りを見失った晴人は、結果的にコヨミを失いました。

無論、プリキュアシリーズといえど例外ではありません。
『スプラッシュスター』では、悪事の代償として満薫は命を落としています(その時不思議な事が起こって復活しましたが)
『スイートプリキュア♪』では、エレンはハミィの嫉妬から悪に走り、悪事を繰り返した結果、二度と猫の姿に戻れないという罰を受けています。

(結果的にあんまり罰になってない気もしますが、悪の改造人間が改心しても人間の姿に戻れなくなったようなものだと考えれば、わかりやすいかと)
こうした描写は、子供達に「身勝手な事をすれば必ずしっぺ返しを食らう」という、反面教師的な教訓としても必要な描写です。
当然、上の二人も「エゴ」を貫いた代償が描かれて然るべきです。ましてや、このふたりは形はどうあれ、仲間の心を傷つけたのですから。
しかし、このふたりに(※めぐみは9月7日現在)エゴに対する代償が与えられたことはありませんでした。
「22話でレジーナに殺されそうになった」というのが代償と考えることもできるでしょう。しかし、それもエースに助けられているため、結果的には大して重い罰とはなっていません。
戦いにおいて何かを喪ったのは、キュアソードやキュアフォーチュン、キュアプリンセスばかり。プリンセスを除けば(※ただし、彼女も一応は擁護できる理由はある)、いずれも何一つ悪事はしていません。
すなわち、めぐみと相田さんは、何もリスクを背負わずに身勝手なことばかりしているわけです
キリストが十字架を背負わずに愛を語るようなもんです。
そんな人達が語る「愛」など、とても心には響きません。

問題点②人の気持ちを考えない言動の数々
相田⇒友人の恩師を怪物にした人間と何の躊躇いもなく友達になろうとする
めぐみ⇒姉が敵の被害を受け今もなお囚われたままのいおなに「敵も全て救おう」と主張する

嘗て、キュアミューズはこう言ってました。
「友達を思う優しい気持ちがあれば、女の子は誰でもプリキュアになれる」
と。
言い換えれば、プリキュアの必須条件とは「友達を思う優しい気持ちがある」ということなのでしょう。
で、上のふたりに「友達を思う優しい気持ちがある」と言えるでしょうか? 
私には到底そうは思えません。むしろ、友達の心を踏みにじった最低の人物と見ています。
当ブログに寄せられたコメントにもございましたが、少なくとも鷲尾梅澤両作品の主人公達ならば、絶対にこんなことしないんですよね。
少なくとも、いおなや真琴に対しても、もうちょっと気を遣った態度を取るはずです。
(個人的には、スマのみゆきが一番上手く対応できそうな気がします)
この人たちはオープニングの映像で真琴やいおなに歩み寄ってるような場面を見せてますが、結局それってウソなんですよね。
それとも、相田やめぐみにとっては、真琴やいおなは友達じゃないんでしょうかね?
ところで、このふたりの身勝手な描写が見られた回は、いずれも成田脚本という共通点があります。
少なくとも成田氏にとっては、この二人はこうした身勝手な人間として映ったのでしょうか。
あるいは、
「作品として導き出す正解(敵との和解、もしくは柴田Pの主張)」
これに至るまで主人公が歩む過程について描写を怠り、いわば飛び将棋のように主人公に言わせてしまったのが原因でしょうか。要するに、「敵との和解」を丁寧に描く能力が、成田氏には足りないのかもしれません。
いずれにせよ、相田さん達が友達の心を重んじるような人間、もといプリキュアの資格がある人間には、私には見えません。
というかハピプリの海外プリキュア設定を平然と出す辺り、柴田は「女の子は誰でもプリキュアになれる」の意味を勘違いしてるんですよね。
「友達を思う優しい気持ちがあれば、女の子は誰でもプリキュアになれる」
要するにこの言葉の伝えんとする意味は、
『友達を思う優しい気持ちがあれば、女の子は誰でもプリキュア(のように)強く優しくカッコいい女の子になれる』ってことなんですよね。
誰でもプリキュアになれるという意味ではないわけです。
根本から意味を勘違いしてるわけです。エコーが限定的な(まぁNS3で出ましたけど)変身だったのも、そういうことです。

問題点③無駄に「愛」を高らかに叫ぶ

相田さんは、一週間に一回ぐらいのレベルでは「愛」を口にしていました。
まぁめぐみはそうでもないですけど。
愛々アイアイおさるさんかよ・・・
と、この二作を見てて思いました。
どこかで読んだ評論では、日本人は「愛」という言葉を高らかに出す者をあまり好まない傾向があるそうです。替わりにその行動で「愛」を表現する事を望むのだとか。
「愛」を高らかに叫びながら、実際の行動はかけ離れているこの二人は、子供たちにとって、本能的に胡散臭いと感じてしまうのではないでしょうか?
問題点④無駄に人だすけしてることを強調する
これが一番鼻につきます。
どちらも、やたら「人助けが大好き」という面ばかり強調されます。
そして、やたらとその面を登場人物たちに持ち上げられます。
こうした描写は、私には鼻につく不快な描写にしか見えません。
スタッフが「人助けをステータス」だと解釈してるようにしか見えません。
実際、「何分何秒でお助けしてる!」というセリフが出たり、めぐみが一話まるまるかけて人助けする回を流したりと、スタッフが人助けをステータスのように解釈してると思しき場面はかなり出てきます。
仮に人助けキャラを強調したいのならば、剣崎や映司のように(映司はいろいろトラウマが原因ですけど)流血したり怪物化しかけたりと、身を削ってまで人々のため戦う様を見せるくらいやらないといけない。
要するに相田さん達の「人助けキャラ」は、中途半端なわけです。
剣崎のような熱い漢を見ている人間には、相田さん達のような小物など足元にすら及ばぬわけです。
そもそも、ヒーロー、というか人間が困った人を助けるなんて、当たり前のことなんですよ。
(※シャンゼリオンなど白倉系作品はその辺の認識を踏まえたうえで、敢えて逆手に取った作風であるのに注意)
剣崎一真の言葉を借りるならば、
『人間なら、当たり前だ・・・!』
歴代プリキュア主人公はおろか、乾巧とかいう薄汚いオルフェノクですらできることです。
その当たり前のことをわざわざ凄いとか強調して何の意味があるんでしょう? 
私には理解できません。(これは鎧武の紘汰にも言えることですが)
それに、人助けを強調してますが、逆に
「人助け以外の要素を覗いたら相田さんとめぐみの魅力は何なの?」 という疑問が沸いてきます。
それこそ、彼女等にはなんでもできちゃうマナ王子(笑)とか戦闘が強いとかいった外面的な個性付けがなされています。
しかし、戦闘が強いとか何でもできちゃう完璧超人といった要素は、創作上ではいくらでも付加できます。
大体戦闘が強いだったら今までのプリキュア主人公だってそうですし、完璧超人だったられいかさんやかれんさん美希たんがいます
要は、戦闘が強いとか完璧超人要素は、ただのお飾り要素に過ぎないわけです。肝心なのは飾り付けるツリーなわけです。ツリーがやせ細った枯れ木ならば、キャラクターの芯となるものに魅力がなければ、完璧超人設定などなんの意味もないわけですよ。
結局のところ、相田さんもめぐみも、お飾りをつけただけの枯れ木に過ぎないというわけです。
以上が、相田さんとめぐみの問題点になります。
反論・議論・修正点ございましたらコメント欄にお願い致します。

柴田宏明プロデューサー問題点まとめ(目次)


※当記事は柴田宏明氏への批判・アンチ記事となっています。彼の作品がお好きな方は、閲覧をお控えいただいた方が幸いかと存じます。
本稿では、「ドキドキ!プリキュア」「ハピネスチャージプリキュア!」「デジモンセイバーズ」等、彼の担当した作品の批判もございますので、該当作品がお好きな方はご注意ください。
予めお伝えいたします。

「ドキドキプリキュア!」からプリキュアシリーズに参入した柴田宏明氏。
彼の指揮する体制となってからは、プリキュアは問題点が多く散見されるようになりました。
では、彼の作品にはどのような問題点があるか?
それは、次の七つに集約されると思われます。
①作品に明確な信念が感じられない
②女性らしい主人公が描けない(だから、やたらと『愛』という言葉を押し出す)
③『守るべき日常』『家族』が描けてない(または描写不足)
④やたらと加害者に肩入れする作風
⑤おかしな倫理観
⑥勧善懲悪を描こうとしない
⑦ヒーロー物のお約束を理解できていない

では、次からその問題点について詳述させていただきます。
・・・と言いたいところですが、あんまりにも長くなってしまったため、本記事は目次とさせていただきます。
それぞれの項目が書き終わり次第、後程この記事からリンクを飛ばせるよう調整いたしますので、予めご了承ください。
(7/27)とりあえず、3章まで書き終わりました。残り四章は今しばらくお待ちくださいませ。
(7/28)一応全章書き終わりました。長らくお待たせいたしまして、大変申し訳ございません。

柴田宏明プロデューサー問題点まとめ⑦ヒーロー物のお約束を理解できていない


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第七章です。
⑦ヒーロー物のお約束を理解できていない
柴田氏は、平成ライダーがお好きと伺っております。
おそらく、「クウガ」以降のリアルドラマ志向がお好きなのでしょう。実際、それに影響されたのか、ドキドキ!プリキュアとハピネスチャージプリキュア!では、次のような描写がなされています。


A.ドキの場合
・プリキュアの情報がネットに流れる
・ありすがその情報を隠蔽
・終盤にはマナが自ら正体をばらす(※シャルルに正体バラすなと注意されていた)
・最終回はプリキュアが政府公認となる

B.ハピの場合
・序盤からプリキュアの存在が世間に認知されている
・世界中に大量のプリキュアが存在し、活躍している
・マスコミがそれらを報道している
・プリキュアは少女たちの憧れ


これらの描写を見る限り、柴田氏は平成ライダーシリーズがお好きと言うことで、それに倣ってリアル志向を作品に取り入れたいという意図が想像されます。
しかし、残念ながら、あまりにもヒーロー物の基本を分かっていないと言わざるを得ないです。
なぜヒーローが正体を隠して戦うのか、なぜヒーローの数が少なければいけないのかが、彼にはまるでわかってないわけです。いたずらにクウガのようなリアル志向を、なんでもかんでも取り入れればいいってもんじゃありません。


Q.なぜヒーローが正体を隠して戦うのか? 
A.簡単に言うと、人々からの迫害を避けるため。

更に言えば、ヒーローは悲しみや苦しみを誰かに見せてはいけないから、です。
井上敏樹御大は、嘗てユリイカのインタビューでこのような事を仰っておりました。
「ヒーローは戦いが終わったら、直ぐに名乗りもせず去らねばならない。何故なら、強い力を持つ者は人の世では疎まれるからだ。それがヒーローの悲しい宿命である」

確かにドキの市民がみな良い人だから受け入れてくれた。そういう好意的な解釈もできるでしょう。
しかし、それではリアル志向を取り入れたことと矛盾します。少なくとも全てが全て良い人というのは、あまりにリアリティがありません。
(逆に、悪い人や愚人だらけでもまた不自然ですがね。ねぇ、虚淵先生?
要するに柴田氏のリアル志向は、中途半端なわけです。


Q.なぜヒーローの数は少なければならないのか? 
A.それは、戦いの悲しみを背負う者は少ないほど良いからです。

仮面ライダークウガのOPの二番の歌詞を思い出してみましょう。
「英雄は~、ただひとりでいい~♪」
これは、戦いの苦しみ、悲しみを背負う人物は五代ひとりで沢山だ、という制作側の願いであり、そして誰かの涙を見たくない五代雄介本人の心情でもあると解釈できます。
プリキュアは基本的には中学生もしくはそれに近い年齢の若い女性が変身します。
即ち、ハピプリの世界観では、そんな若い少女達を世界中が平然と辛い戦場に立たせていると言うわけです。プリキュアが多数いるということは、そう言うことです。(※オールスターズなどはお祭り映画なので除外)
更に言えば、ハピプリでは(26話現在)若い少女たちが倒れる様に心を痛める市民は全く描写されていませんし、それどころかファントムとかいうプリキュアを専門に倒してコレクションする敵までいます。
そこまで若い女性が苦しむさまを見て喜びたいのかと、邪推したくなります。
つまり、柴田Pは所謂「平成ライダーかぶれ」の製作者であり、平成ライダー風の描写をすれば受けるだろうと甘い無策な考えを持ち、その結果作品に問題点を生み出したり、失敗したりしている人だと言えるでしょう。


以上の事から、柴田宏明プロデューサーの問題点について、ご理解いただけたでしょうか。
最後まで閲覧いただいた方は、大変お疲れ様でした。
ご拝読いただいたことに改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
反論、ご批判ございましたらお受けいたしますので、コメント欄にまでお願い致します。

柴田宏明プロデューサー問題点まとめ⑥勧善懲悪を描こうとしない


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第六章です。
⑥勧善懲悪を描こうとしない
前章④、⑤にて執筆いたしましたことが、ここに集約されます。
確かに、多様な視点から物事を見る姿勢は大事でしょう。しかし、プリキュアの年齢層はあくまでも幼い子供達であることを忘れてはなりません。それはもう少し成長してから教えればいいだけのこと。
さらに、子供のうちからしっかりした倫理観を教え込むことは重要なことでしょう。
確かにプリキュアシリーズは大きなお友達が視聴層に含まれます。とはいえ、子供達にとっては真っ当な勧善懲悪を描いた方が教育上適切かと思われます。
良い事は良い、悪い事は悪い。
これをしっかり描かないようでは、到底子供番組を制作する資格などありません。
なお、こうした場合に引き合いに出される龍騎と555は、確かに『勧善懲悪』とは断言しづらい構造の作品でした。しかし、
「どんな理由や願いがあっても、他者に暴力をふるったり、人を殺めてはいけない」
と、『懲悪』は徹底して描いていました。(作中において、これに反した人々はほぼ例外なく報いを受けています)
真司と巧はいずれもこのテーマにしっかりと従った主人公でした。
だからこそ戦いを最後まで躊躇したり、「戦うこと(≒人を守るためオルフェノクとなった人間を倒すこと)が罪だというのなら、俺が(その罪を)背負ってやる!」の名言も残しました。
よって、これら二作は十分(orギリギリ?)子供に教訓を与えていますし、目を向けていると言えるでしょう。

柴田宏明プロデューサー問題点まとめ⑤おかしな倫理観


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第五章です。
⑤おかしな倫理観
悲しい事に、ドキドキ! プリキュア(以下ドキと呼称)以降、プリキュアシリーズの倫理観はどこかおかしなものに変貌してしまいました。
ここでは、ドキドキ! プリキュアとハピネスチャージプリキュア!を例に挙げ、論じたいと思います。


例(1):アイちゃんキモ赤子の洗脳および言動への周囲の反動

(キモ赤子および洗脳についての詳細はこちら
「なによぴーすけさんったら! こんなかわいい赤ちゃんをキモ赤子なんてひどいわ!!」
と、幼気な少女ならばこの記事を読んでそうおっしゃるかもしれません。
ではなぜ、この描写が倫理的に問題だったか、ご説明いたしましょう。
正直に申し上げますと、この記憶操作というか洗脳さえなければ、正直私はここまでこの赤子妖精を憎悪して嫌う気はなかったです。それでも、能力が便利すぎて話がおもしろくならず、「ウザい」とは思ったでしょうけど。
反応がコレだけのマナもマナだ
私がこのキャラをキモ赤子と呼ぶ理由、それは母性愛を土足で汚し、踏み躙ったからです。
ドキ本編でも、子供への母親の愛情は幾度か描かれてきました。実際、マナの母がそれを語る場面が作中にはあります。
kouihanasigaattawakedaga.jpg
そこには、腹を痛めて産んだ苦労や数々の思い出や愛情が積み重なってきたはずです。それだけ母親の愛とは尊く素晴らしいものであるべきです。少なくとも子供番組ではそうあるべきです。
このキモ赤子は、そんな母親の心に、記憶操作でニセの愛情と記憶を植え付けたわけですよ。
つまり、相田あゆみの心に、彼女(=キモ赤子)を孕んだ喜びや腹を痛めて産んだ苦痛、そして育て上げた苦労や愛情といったものの、ニセモノの記憶を植え付けたわけです。
もうお分かりでしょう。私がこいつをキモ赤子と呼ぶ理由も。
そう、このキモ赤子は母性愛という人間が最も尊ぶべき感情に土足で入り込み踏み荒らした
プリキュアシリーズどころか、アニメ界でも史上最低最悪のキャラクターというわけです。
同年代の作品で言うならば、コイツはキョウリュウジャーのデーボ・キャワイーンとおんなじ事をしたわけです。そんなことをして善人ヅラをしている分、デーボスよりもタチが悪い。


例(2):街が幻影帝国に侵略されてるのに平然としてるめぐみ達。
ハピプリ第1話で見られた場面ですが、街がカビやらなんやら気持ちの悪い物体に覆われているのにめぐみ達は平然としていました。まぁめぐみだけならポジティブな性格ゆえと解釈できないこともないですが、
好意的な解釈をすれば強いプリキュアへの信頼感とも言えるでしょうが、それにしたって全く不安感などを示さない状況は異常としか言えません。誰しもがめぐみみたいにポジティブなわけでもないです。幻影帝国に怯えを見せない人が存在しないのはおかしいとしか言い様がないでしょう。


例(3):マナの問題点、そこからの成長を描こうとしない
④でも言及されていましたが、マナの問題点、そこからの成長を描こうとしない
彼女は明らかに問題点が作中で指摘されています。
・やたらと人助けする点を「お節介」「目立ちたがり」といじめっ子に言われショックを受ける(そのいじめっ子はありすにボコられた)
・真琴の気持ちを無視してレジーナとあっさり友達になろうとする
・レジーナの気持ちを無視して「愛を取り戻そう」とか囁きかける
しかし、作中でこれらの問題に向き合うことはありませんでした。ほかのシリーズでは、しっかり自分の問題点に向き合い克服して成長するドラマが描かれていたというにも関わらず。
この問題点については、制作側(特にシリーズ構成)が、「マナは正しい」という観点から抜け出せてないことが最大の要因でしょう。柴田氏は、
「(視聴してる少女達が)マナのような女の子になって欲しい」とインタビューでコメントしています。おそらく彼は、良い子のお手本になるようマイナス面を描かないようにしてきたのでしょう。
しかし、この世にマイナス面のない人間などいるでしょうか? 
というより、マイナス面から目を逸らし、描かないようにするのは、作中のキャラクターが人間らしさを失うことにも繋がります。
正直、シリーズ構成や柴田氏のマナへの考え方は、歪んでるとしか思えません。


例(4):ファントムとかいうクズ野郎の変態
子供番組でよくこんな不快な敵を描けるもんだ、と私は憤りを覚えました。
分かりやすく申し上げますと、コイツは倒したプリキュア達を半裸の状態で棺桶に閉じ込め、コレクションするというキャラクターです。
深夜アニメならばともかく、子供向け番組で性的暴力を想起させるこうした描写は、いかがなものでしょうか。
描写をもっと工夫し、刺激性の強くない表現にすることもできたはずです。石化、カードに封印されるなど。
というか晴人さんには、コイツとこんな描写にすることを決定したスタッフの皆様を、残らずぶっ倒していただきたいものです。


例(5):マスゴミヨ増子美代
ハピプリでは、なにげにこの人もおかしいです(この人に限らず、ハピプリはぐらさんといおな以外、誰も彼もがベクトルやサイズは違えど頭おかしい人が多いのですが)。
というか、この人のニュース番組を見る人も、作る人も。
めぐみの家に突撃訪問するのも報道倫理的に問題がありますし(しかも彼女の母は病弱なんですよ)、(許可はとっていたとはいえ)学校生徒に所構わずインタビューを仕掛けて迷惑をかけるのも不快でした。
さらにあんな半裸の少女を全世界に放送するとか、恥さらしもいいところです。女性としての恥じらいを守るとか、そういう配慮ができないんでしょうか?


例(6):作中における、ジコチュー化する人の判定基準およびその描写
ドキでは、基本的には心に悪意を持った人間がジコチューにされました。たとえば「信号無視したい」と言ったような。
しかし、本作ではそういった「悪いこと」とは言いづらい心情を持った人も、ジコチューにされていました。
たとえば、「CD売ってもっと大儲けしたい」、「赤ん坊の泣き声がうるさくてイラっとした」などなど。
前者は劇中でなんら不当な手段を用いてはいませんでしたし、どう見ても「悪いこと」とは言いづらいものです。
後者もイラっとすること自体はなんら悪いことではありません。後者の人は何も言わず立ち去ろうとして、むしろ寛大な人物でした。
こうした決して「悪いこと」をしてない人物まで「ジコチュー」扱いとは、視聴者に聖人になれとでも言いたいのでしょうか
また、劇中ではトランプ王国の国民達がジコチュー軍団に襲撃され、逃げ惑う場面が描かれています。その時、「自分だけが助かりたい」と思ったために、彼らはジコチューになったそうでs。
正直、私は頭にきました。まだ東日本大震災の悲しみも癒えぬ中、よくもまぁこんなふざけた描写ができたもんだなと。
この描写に加えて、さらに頭にきたのは、この場面に対するとあるファンの発言。
あまりに頭に来て脳みそが沸騰してしまい、お風呂の冷水が熱湯になってしまってカップラーメンを三個も作らざるを得なくなってしまったほど怒りを覚えました(嘘)ので、此処にその内容を完結にまとめさせていただきます。
(太字)は、筆者による補足と内容の解説と突っ込みです。


>ジコチューという敵の性質上、心の中のジコチューに負けなければ問題無いわけで
(助かりたいと思う心さえジコチューか、ふざけんな!)
>国民自身も自分の悪の心(=自分だけ助かりたいと思う心)に負けたという点では反省が必要
(生き残りたいという感情のどこが悪か、私には理解できない)
(※以下は、『「自分だけは助かりたい気持ち」に負けて怪物化したから国民にも責任があるとは酷』という意見に対するコメント)
>生き物として正常であり世界的にはそちらの方が正しいが、海外での災害では物資の奪い合いで暴動が起き、救援隊が近づけないなんてことがあった(と、事例を解説していた)
(だから何? それは単にその人たちの統制が取れてなかっただけで、「自分だけは助かりたい気持ちが悪」っていう証左にはならないんですけど)
>あれ(←おそらくトランプ王国のジコチュー軍団を指す)は国民たち自身では?
>トランプ王国民の心の協力があったら、こちらと同じように倒せていた
(=つまり、このコメントを書いた人は、「ジコチューな心を抱いたトランプ王国民が悪い」と言いたいのでしょう)


要約するのもうんざりしますが、このコメントを書いた人は要するに、
「『自分だけ助かりたいと思う心はジコチュー(=悪)』であり、それに負けたトランプ王国民にも非があるから悪い。反省しろ」とでも、仰りたいのでしょう。
はっきり申し上げれば、これを書かれた方は人生経験が未成熟なのでしょう。
確かに、震災などの極限状況では助け合いが大事ですし、311でその姿勢が高く評価されたのも事実です。
しかし、極限状況でパニックになり、自分だけでも助かりたいと考える人間がいたのも事実ではあります。しかし、それは決して「悪」とは言えないでしょう。すべての生命にとって、生き残りたいと思う心は「善」であるはずです。生命維持のための利己的な行動は、決して悪とは言えません。ましてや生か死かの極限状況なら尚更の事。
それさえも「ジコチュー(=悪)」と描いてしまうのは、あまりにも冷酷ですし、身勝手すぎる考え方です。
ちゅーか・・・。
生き残りたいと思う心さえもジコチューという描写をしてしまうことに、柴田氏の倫理観のなさが表れています。
彼が、どんな想いであの日津波に流された人達が亡くなったのか、その気持ちや苦しみを考えたことはあるのか疑問です。こういった話題を簡単にアニメに出す神経も信じられませんし、ましてや掲示板に出して論って良い内容とは思えません。
そう言いたくなるコメントでした。これ以上はこの内容について語りたくもないので、これでおしまいにします。
ついでに、同一の方による相田さんへの評は、だいたいこんなかんじでした。、
「周囲の支えや優しさ行動が無かったら、本編の「相田マナ」というキャラクターは消えており、最後に取り壊された「幸せの王子」と同じ結末になっていたかも(文化祭回参照)。つまり「相田マナ」というのは人々の愛や優しさの象徴、結果として用意されたキャラクターだったのではないか」
確かにマナが仲間に支えられて成り立っていたのは納得できます。もっとも、相田さんはそんな六花やありすの助けに対して、ほとんど感謝を示しませんでしたが。また、その仲間達が、劇中で相田さんを(精神的な面で)支えることなんてほとんどなかったんですけどね(※1)
文化祭回は、結局マナマンセーで終わり、協力の大切さを訴えた回には見えない。
そして、
”「相田マナ」というのは人々の愛や優しさの象徴、結果として用意されたキャラクター”
これは私にはまったく意味がわかりませんでした。誰か頭のいい人は解説してください。
(※1)
私が付け加えるまでもないですが、過去のシリーズでは、常にプリキュアは仲間同士精神的に支え合う場面が描かれました。
初代とSS⇒言うまでもない
5⇒りんちゃんはのぞみの面倒見いいオカンに見えて、実は彼女ものぞみに支えられていた。
フレ⇒ラブがヘタレた時、美希は誰よりも早く彼女を叱り、手を取って支えた(劇場版のこと。筆者はこのあたりのくだりでボロ泣きしました・・・)。
ハト⇒つぼみとえりかはお互いに、人格面での長所と短所を補い合って進んできた。
スイ⇒セイレーンは彼女を信じ続けるハミィに救われた
スマ⇒みゆきが落ち込んだり馬鹿にされた時は、あかねが誰よりも早く彼女を励ましたり、馬鹿にした相手に怒ったりした。

柴田宏明プロデューサー問題点まとめ④やたらと加害者に肩入れする作風


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第四章です。
④やたらと加害者に肩入れする作風
柴田Pの作風で最も鼻に付く点、それが異様な加害者擁護です。
正直、これが最も不可解です。


A.ドキドキ!プリキュアの場合
ドキでは、レジーナという少女が敵キャラとして登場します。まずは、このキャラについて簡単に説明させていただきます。
彼女は敵の親玉の娘であり、実際に彼女も何回か人間を怪物(ジコチュー)に変えています(それも、何の罪もない真琴の恩人を)。当然、真琴は彼女を敵視します。当然の心理でしょう(※マナはこの情報について認知してます)
しかし、なぜかマナはレジーナを庇い立てし、真琴の気持ちを無視してレジーナの「友達になろう」という申し出もアッサリと了承してしまいます。(マナ曰く、「無邪気な笑顔をしていたから」らしいです。)
もちろんこの時、レジーナはまったく悪事を反省していません。
しかしその後、真琴も流れでいつの間にやらマナに同調し、なぜかレジーナを大事にするようになりました(※和解するにあたって、レジーナと真琴の間で一切ドラマが描かれてすらいない)。あまつさえ、終盤では自らレジーナを助けようと努力する始末。
最終的に、レジーナが悪事を反省したり、ジコチューに変えた人々に対して罪悪感を抱く事、まして謝罪することは一度としてありませんでした。
確かに、途中でレジーナは洗脳されて悪事を働くようになりました。しかし、上記の悪行はすべて洗脳される前に行なったことです。
「善悪がわからない無邪気な子だから仕方がない」といった擁護もあるでしょう。しかし、それでしたら尚更その善悪についてプリキュア達が教育する場面が必要だったのではないでしょうか?
そのような場面は、私の見る限り皆無でした。
「販促などがあるから、尺がなくて書けなかった」は、言い訳になりません。
その当時は、六花ありす真琴の出番を割いてまで、レジーナの描写に注力していたのです。プリキュアが教育するなり、レジーナが反省するなりの描写を入れる機会は、十分にあったはずなのです。
この他にも、ドキではトランプ王国の王様が災いを国に撒くと知りながら、ジコチューを解き放ってしまったという経緯が描かれています。確かに身内の命の危機というのはやむを得ない面もあります。しかし、だからといって大勢の人の幸福や生活を理不尽に奪って良いわけがありません。彼には反省や謝罪が必要でした。
しかし、この作品では(王の愚行の被害者でもある)キュアソードの、次の一言によって片付けられてしまいました。
「愛に罪はない! 悪いのは人を愛する心(=王の気持ちを利用した)あなたたち(=王に取り付いた黒幕的キャラ)よ!」
はいぃ?
確かに彼が愚行を行なった理由には同情すべき面があります。
しかし、罪は罪です。彼は償いをしなければなりませんし、謝罪や反省の必要があります。
それを「罪はない」と言い切るのは、あまりにも被害者に対して失礼ではないでしょうか。
そもそも愛があれば、他人に迷惑をかけて良いのでしょうか? 
良いわけないでしょう。


B.ハピプリの場合
この作品では、キュアプリンセスことひめが全ての発端でした。
彼女が開けてはならない封印を解いてしまったことで(一応、「開けてくれ」みたいな声が聞こえたからと後にフォローされましたが)、幻影帝国が復活し、結果的にいおなの姉も戦いに巻き込まれて植物状態同然の状態に陥りました。ついでに言えば、世界が幻影帝国に侵略され、世界のプリキュア達も幻影帝国との戦いに倒れました。
そして、そのことがバレてめぐみ達に嫌われることを恐れたひめは逃げ出しました。この時、ひめにいおなに対する罪悪感や謝罪の感情はまったくありませんでした。
しかし、彼女にめぐみはこう言い出しました。
「ひめは悪くない、悪いのは幻影帝国だよ!」
そして、作中での話の流れとして、なぜか被害者側であり客観的に見て明らかに非はないいおなのほうが、「ひめをいじめる悪いひと」のような描き方をされました。
一応、結果論としては、ひめが(なぜか唐突に)いおなのことを心配する流れになり、ひめがいおなに謝罪し、いおなも自身も冷たくあたっていたと反省し、双方が和解しました。
ひめといおなのこの一連の流れは、恐らく前作のレジーナと真琴で描かなかった部分を流用してみたのでしょう。確かに、一応両方に非があったという流れに持っていき、きちんと和解に尺を用いた分、ドキよりはマシでした。
しかしその過程では、
「気の弱いけど頑張ってるひめちゃんに辛く当たるいおなが悪い、話を聞かないいおなが悪い!!」という偏った視点による描き方をし、明らかに加害者側(ひめ)への肩入れが伺えます。
もう一度言いますが、客観的に見て、いおなには何の非もありません。確かにひめの話を聞かなかったことが問題視されますが、彼女は間接的とはいえ、ひめが原因で理不尽に家族を奪われたわけです。心情から考えて、十分に理解できる行動で情状酌量の余地があります。交通事故で家族を奪われた人間が加害者を憎むのは当然でしょう。似たようなものです。
どんなに理由があろうと、ひめが多くの人に迷惑をかけたことは変わりありません。彼女が最初に被害者に対峙したとき取るべき行動は、謝ることでした。しかし、誰ひとりとして彼女に謝るよう説いた人間は存在せず、なぜかひめが唐突に心変わりして自発的に謝るという経緯でした。
もちろん結果的にいおなに謝罪をしたのは褒められるべきことですが、その過程は論理的に理解できるものではありませんでした。
以上の件から、柴田P作品ではやたらと加害者に肩入れする作風だと分かります。正直言って、キャラクターの行動を客観的に見ることができず、贔屓しているようにしか思えないですね。


「じゃあ、せつなとエレンはどうなのよ?」という反論もありそうですので、此処であらかじめ申し上げておきます。
キュアビートとキュアパッション
この二人の場合は、まず自身の過ちを自覚し、人々を苦しめたと、罪悪感に苦しむ場面が非常に丁寧に描かれていました。謂わば、彼女たちは被害者側に立った考え方をしていたわけで、根本から上記の人達とは異なります。満薫は言うまでもありません。
それ故に、彼女たちは児童視聴者を含む大半の視聴者に受け入れられ、人気キャラクターとなれたわけです。
すなわち、梅澤Pは悪役の改心ドラマを描くにあたって、しっかり良識を持った上で丁寧に描くよう心がけていたというわけです。柴田氏も、彼を見習ったらどうなんですかね?

柴田宏明プロデューサー問題点まとめ③『守るべき日常』『家族』が描けてない(または描写不足)


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第三章です。
③『守るべき日常』『家族(とりわけ正しい父親)』が描けてない(または描写不足)


初代~スマまでの作品では、いずれもしっかりプリキュアの日常を描けていたことは言うまでもありません。
今更ここで説明するまでもないでしょう。日常とはすなわち家族、よってプリキュアシリーズで家族描写は不可欠とも言えるでしょう。
しかし、ドキやハピの場合はいかがでしょうか? あまり家族が丁寧に描かれているとは言い難い状況です。
さらに、母親はともかく、父親がほとんど描かれていない、もしくは描かれていても否定的な役柄ばかりなのも目立ちます。
確かにマナの母親は何回か出番がありましたが、翻って父親は(祖父に未だ認められてない件以外)どんな人物かサッパリわかりません。祖父に至っては(少なくともテレビ版では)空気でした。
ありすの父は割と理解のある良い父親として描かれていました(ちなみにその回の脚本は米村正二)が、母親は健在であるにもかかわらず全く描かれていません。ありすにとってはセバスチャンが擬似的な『父』とも考えられますが、それはそれでどうなの? と。
辛うじて両親の人柄が判明したのは、六花の両親くらいです。
(※真琴と亜久里はそれぞれ特殊なケースなので省きます。)
更に言えば、全ての元凶はアン王女の父親(但し、娘の重病という同情できる理由あり)という事態が描かれました。
ハピに関しても同様です。
めぐみんの父親は2クール過ぎた7月現在も何一つ描かれていませんし(愛乃かおりと誠司ママがシングルマザーだと想起させる場面もあります)、
ひめは両親が捕まってますがその人となりは何一つ描かれていません。しかも母はともかく父については全く言及されてません。ゆうゆうは唯一まともな家族構成ですが、2014年7月現在、どういう人となりなのかはほとんど分かりません。
いおなに至っては祖父以外の家族構成が全く不明ですし、家族描写は姉以外ほとんどありません。


以上のことから、ドキとハピにおいては『父性』が軽視されていることが分かります。
過去シリーズでは、ここまで『父性』が軽視されたことはありませんでした。


SSでは、満と薫が父とも言えるアクダイカーンへの反逆を、心苦しく感じていました。
フレでは、離婚した美希の父は描かれませんでしたが、ラブとブッキーの親父は愛すべき中年として描かれました。
ハトでは、『間違った父親』もいれば、つぼみ・えりかの両親など『正しい父親』も多数いました。
スイでは、響パパはやり方にやや問題こそありましたが、それも娘を思うがゆえの厳しさでもあり、基本的には良き父でした。更には、後半に過ちを償おうと努力する父親もいました。
スマでは、やよいが亡くなった父の記憶を思い出す感動的な回(※米村脚本)が描かれました。
ところどころ問題点が垣間見られる人もいるものの、基本的にスマまでのシリーズでは、必ず一人は「正しい父親」を描いていると分かります。


ちなみに平成ライダーでも、ここまで『父性』を否定的に書く事は殆どありませんでした。
明確に酷い父親だけしか登場しない作品を挙げると、555(のゴートオルフェノク)くらいでしょうか。(それでも刑事のおっさんとかはいましたけど、名前忘れちゃいましたw)
剣では、天音ちゃんの父が託した写真と父性が、相川始に人間の愛情を知るきっかけを与え、彼を強くする根幹となりました。(剣34話参照)
響鬼の後半は、父親を失った桐矢京介がヒビキという『父』に出会い、変わる話でもありました。
カブトも、加賀美パパは一見酷い事ばかりしてるように見えて、実際は誰よりも息子を案じていました。
キバの音也は確かにその行動に賛否両論あっても、少なくとも渡に対しては「正しい父親」として在ろうとしていました。
ダブルは、鳴海荘吉という『おやっさん(父)』が翔太郎・フィリップ・亜樹子の三人を育て、支えとなっていました。
ウィザードも、確かに歪んだ父親の愛情が事の元凶でしたが、同時に彼と正反対の生き方をした『正しい父親』(※晴人の恩師)も描かれました。


プリキュアは、必然的にファミリー向けの作品でもあります。ならば『家族』を描くのは必須ではないでしょうか。
ここまで『父性』を軽視する姿勢は、柴田氏の過去に何かあったのか邪推したくなります。

柴田宏明プロデューサー問題点まとめ②女性らしい主人公が描けない(だから、やたらと『愛』という言葉を押し出す)


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第二章です。
②女性らしい主人公が描けない(だから、やたらと愛を押し出す)


ドキドキ!プリキュアは、なぜ「愛」をやたらと作中で押し出すのか? 
これは昨年度からの疑問でした。
これは僕の単なる推測なのですが、少なくとも2014年7月現在の彼の作品を見る限り、柴田氏は女性らしい性格の主人公が作れないことに起因するのではないかと考えています。
ここで、女性らしい主人公とはどういったものか、定義づけをさせていただきます。
音吉さん家のとある本(※『科学でわかる男と女の脳』。ただし、内容が若干フェミニズム的であるため、すべてを鵜呑みにしないように!)には、女性的な人格の特徴としてこう書いてありました。
・他者に対して、無意識的に共感する能力(※もちろん個人差はあります)
共感の例は、
・お母さんが泣いてる子供に「どうしたの?」と囁きかける
・振られた友達に「かわいそう・・・!」と泣いてしまう      などが挙げられます。
ここでは、「他者への共感」を中心として、これまでの鷲尾P・梅澤P・柴田Pの、各シリーズのプリキュア主人公が女性的かどうか、振り返ってみましょう。


A.鷲P作品の場合
たとえば鷲尾P作品ですと、なぎさ、咲、のぞみの三人が各作品の主人公です。
なぎさはボーイッシュな外見ですが、案外(失礼)傷つきやすい心を持ち、憧れの藤P先輩に恋する場面もあるなど、普通の女の子として描かれています。
咲は少なくとも男前とは殆ど言われませんし、のぞみは典型的なドジっ娘キャラが強いです。(勿論、全員、戦闘時は凛々しいですが。)
いずれの主人公達も、他者を思いやる優しさと悪へ怒りを向ける面が見られました。とりわけ、のぞみは他者の夢を応援しようとする面が見られました。これは他者への共感がなければできないことでしょう。
すなわち、彼女等に関しては、「他者への共感」がしっかり描けていると言えると考えられます。


B.梅P作品の場合
梅澤P作品ですと、ラブは『ラブ兄貴』とか呼ばれますがその実非常に母性的且つ傷つきやすい面が見られます
(むしろ、美希たんのほうが男らしい気がします)。また、キュアピーチは「愛」を名乗りの際に叫びますが、それ以外の場面で彼女が「愛」という言葉を使うことは、殆どありませんでした。
つぼみは少々好奇心旺盛な男の子っぽい面もありますが、「○×さんの気持ちを利用するなんて! 私、堪忍袋の緒が切れました!!」と何度も口にするなど、他者への共感という女性的な側面がしっかり見られます。
響は外見こそツリ目の快活な少女に見えますが、落ち込みやすかったり脆い面が多かったり他者への思いやりが強かったりと、良くも悪くも女性的なメンタリティでした。
みゆきも響同様、繊細な面が多く、他者への思いやりが強かったです。
梅澤Pのプリキュア主人公達も、しっかり女性らしいメンタリティを持っていると言えるでしょう。


C.柴田作品の場合
翻ってマナとめぐみんはいかがでしょうか?
マナはマナ王子とか呼ばれ、何かにつけてカッコいいとか言われていました。一部視聴者にも、作中の人からも。また、彼女がリーダーとして仲間を引っ張る場面が殆どでした。これらの特徴は、彼女のメンタリティが男性的であることを示唆しています。
また、何よりも彼女には他者への共感が明らかに欠けている場面がありました。
「真琴の気持ちを分かってなかった」と吐露する場面があります。この他にも、レジーナの気持ちを無視して一方的に「愛を取り戻そうよ」と言いよる場面や、純の気持ちに気付かない場面など、枚挙に暇がありません。
この事からも、マナには女性的なメンタリティを持つとは言い辛いと考えられます。その代り、彼女はやたらと「愛」を連呼します。
めぐみはそんなに「愛」連呼はしないですし、ブルー兄さんに惹かれるなど、マナよりかはまだ女の子らしい面があります。ですが、キュ荒ブリーと揶揄されるような戦闘面での暴れぶりは男性的なイメージを強く補強します。
更に誠司には「相手の立場になって考えろ」と、幾度か忠告されています。
すなわち、めぐみにも他者への共感が欠けているといえるでしょう。
この二人を仮に男性キャラに置き換えても違和感は少ないはずです。(ブルー兄さんへの恋慕はノーコメントでw)


以上のことから、
鷲尾P&梅澤P作品の主人公達は母性や女性らしさ、愛情といった要素が表現できておりわざわざ「愛」という言葉を押し出す必要性がなかったのだと言えるでしょう。
言い換えれば、殊更に「愛」を言葉で強調する必要性が薄いと言うことです。
逆に、柴田P作品で主人公が「愛」を強調するのは、彼女達のキャラクターが男性的である事を補うためにに必要なのかもしれません。
言い換えれば、柴田Pには女性主人公の造形スキルが足りないとも言えるでしょう。
(※これまで彼が担当した作品は、「デジモンセイバーズ」や「ONE PIECE」など、男性が主人公のものばかり)
しかし、「愛」「愛」と連呼すると、嘘くさいと(少なくとも日本人は)感じてしまいます。実際、ドキプリの愛は一部視聴者にとっては嘘くささが垣間見えると言った意見もありました。
これを防ぐには鷲尾梅澤両氏のキャラ造形を見習うべきなのでしょうが、果たして柴田氏はいつそれにお気づきになられるのでしょう?

柴田宏明プロデューサー問題点まとめ①「作品に明確な信念が感じられない」


柴田宏明プロデューサー問題点まとめ、第一章です。
①作品に明確な信念が感じられない
まず、柴田P作品の問題点を考察する前に、それ以前のプリキュアシリーズについて振り返ってみましょう。
過去のプリキュアのプロデューサーの基本方針および作品のテーマを挙げるとするならば、次のようになっていました。
鷲P⇒「女の子だって暴れたい!」
初代⇒「同上」
MH⇒「想い運命を背負った少女(=ひかり)の物語」
SS⇒「花鳥風月」
5⇒「夢と現実(に立ち向かう強さ)」

梅P⇒「敵との対立・和解」
フレ⇒「家族、ディストピアからの解放」
ハト⇒「花、人の心」
スイ⇒「音楽、対立と和解」
スマ⇒「本当の笑顔とはなにか」

梅澤プリキュアシリーズは、ハト以外は基本的に敵(幹部)と和解するパターンが非常に多いです。スイに至っては、敵の親玉さえも和解に成功するという偉業を成し遂げました。
こうした作風が多い傾向については、NS2における梅澤氏のインタビューから伺えます。


(以下、http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20130315/E1363286951371.htmlより抜粋)
(中略)
───そこは、いちばんうかがいたかったことの一つです。こんなに大勢になる前、最初に手がけた「プリキュア5」の映画「鏡の国のミラクル大冒険」2007年)から、梅澤さんの「プリキュア」ってじつは戦ってないですよね。敵に勝つというよりも、結局は、許しであったり、共生の選択であったり。敵っていうのはわかりやすく外側にあるものではなく、自分の一部なんだよというメッセージが強い。
(中略)
梅澤  それは私の中でのターゲットの問題ですね。誰のために作っているのか、誰が見るのかっていうことが一番重要ですから。「プリキュア」のメインターゲットの3歳から6歳の女の子にとって一番の敵は、たぶんお母さん。「ちゃんと食え、はやく着替えろ、はやく寝ろ」と自由を阻害してくる。幼稚園の先生も同じですね。あとは友だち。おもちゃ取り上げたり、意地悪してきたり。邪悪な敵組織なんていないじゃないですか。そこに向かってプリキュアが「自分たちに害をなすものは排除するんだ!」と必殺技で容赦なく攻撃して消滅させる様子を描くのは、私にはかなりグロテスクなんです。
───憧れの存在であるプリキュアから「お母さんも先生も友だちも排除していいんだ」ってメッセージを受け取ってしまうことになりかねない。
梅澤  うるさいけどお母さんの言うことはもっともだし、自分が悪かったんだと気づいて謝ってほしい。理不尽な意地悪をしてくる友だちを「二度と遊ばない」と排除するんじゃなくて「それは悪いことだよ」「あ、そうか、ごめんなさい」「じゃあまた一緒に遊ぼう」って会話をきっかけに仲良くなってほしい。おたがい話せばわかることじゃないですか。で、メインターゲットの子どもたちのまわりで起こっていることを、プリキュアたちにやらせているだけなんですよ。
───そのなぞらせかたがすごくていねいですよね。だから単純な「お説教」ではなく、大人が観ても「ドラマ」として響くものになっている。
梅澤  もう一つは、未就学児を一人で映画館に行かせるわけにはいかないから、親も一緒に行かざるを得ない。そこで親が退屈したら「もう映画より遊園地にしようよ」ってなりかねない、それは困る(笑)。「プリキュア面白かったね!」って笑ってる子どもが見上げたら、お父さんお母さんがボロ泣きしてるってのが私の理想。
(抜粋終了)


こうした氏のお考えについては、「甘い」とか「理想論」とか考える方もいらっしゃるでしょう。ぶっちゃけ私もそうです。
しかしながら、その理想論を描くのは子供向け番組の形の一つとしては有りだと思います。
そう言う意味で、私は彼のプリキュアシリーズに対する制作姿勢に対し、すこぶる敬意を表したいと考えています。
翻って、柴田氏は如何でしょうか?
柴田⇒「愛」(2014年現在の暫定)
ドキ⇒「博愛」
ハピ⇒「(恋)愛、幸せ」

では、「愛」とは具体的に何か? ご存知の方は、まわれめまわらないことさためらわないことさ」以外の回答をお願い致します。
「愛」と言う言葉は、如何様にも解釈できる曖昧なモノです。
真っ当な博愛も、恋愛感情も、家族愛も、ヤンデレさえも、広義で言えば全て愛と言えるでしょう。言い換えるならば、個人によって如何様にも解釈できる危険な用語とも言えます。
また、何処かの評論で読んだことがありますが、海外の恋愛映画とは異なり、日本の恋愛映画では「愛してる」という単語は殆ど使わないそうです。
その評論によりますと、日本人はそう言った言葉をウソ臭く感じ、行動で示すことを好むからだそうです。
だからこそ、「愛」をテーマにするならば、作中で「愛」の明確な定義づけが必要なのですが、2014年7月現在、現状ドキもハピもそれに当たる具体的な解説がなされたことはありません。
反対にフレプリとスマプリでは、それぞれ『幸せ』『笑顔』という一見曖昧にも取れるテーマについて、具体的に示しています。

フレ:『幸せ』=仲間や家族と共に日常を歩んでゆく
スマ:『笑顔』=みんな笑顔でウルトラハッピー、「物欲による幸福」の否定

今のところ、柴田氏の作風は青臭い理想主義を描いたものでもなければ、シビアな現実主義的でもなく、抽象的なお花畑のように思えてなりません。
それが、ドキのテーマ「愛」に集約されているように思えます。

ふたご版ドキドキ!プリキュアとハピネスチャージプリキュア(前半)、アニメとの差異まとめ


※私が知る限りの内容しか書いておりませんので、悪しからず。
追加情報をご提供いただければ追記させていただきます。
また、スマ以前のふたご版プリキュアシリーズは未見ですので、情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。

上北ふたご先生と言えば、なかよしでプリキュアシリーズのコミカライズをなされていることで有名です。
が、その内容は月刊誌故か、テレビとは大きく異なる場合があります。
本記事では、私の知る限りのテレビとの差異をまとめさせていただきます。
なお、当ブログに情報提供をしていただきましたtamai-kei様には、この場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
①ドキドキ!プリキュア
5話編

→だいたいテレビと同じなので略。
10話編
→真琴の歓迎パーティをするマナだが、真琴に嫉妬してパーティを飛び出す六花。
そんな彼女を「ダイヤモンドを傷つけられるのはダイヤだけ」と諭すありすであった。
16話編
→レジーナは普通にジコチュー化などの悪事をしてない、敵側の娘と言うだけの存在。そのため真琴とレジーナの和解もすんなり。 最後は真琴の舞台を見るマナとレジーナたちで〆。
22話編
→だいたい本編と同じなので略。
23話編
→落ち込むマナを美味い物食わせて励まそうとするが、マナは見向きもせず、強くならねばと特訓を一人で始める。
そんな彼女を、「仲間を見向きもせずに強くなれるはずがない」と、エースが叱責し、マナは改心。あとは戦って終了してエースの正体バレで次回。
勿論、赤子妖精の洗脳などは存在しない。あと、変身ラビーズはエースによって全員分取られました。
28話編?
→特訓する一同だが、ほぼふたご先生のオリジナル。ありすの別荘で合宿する話である。
亜久里は、テレビ版とは性格がかなり異なっており、無理して背伸びする小学生と言った感じである。
そんな彼女を暖かく支えるありすとの交流を描いたお話。
余談だが、ありすは漫画版だと、仲間を陰ながら支え諭すと言う、チームのお姉さん的役割が強調され、漫画版での存在感は強め。
ビューティコンテスト編
→ふたご先生のオリジナル。コンテストに忍び込んだマーモを止める話。
35話編
→妖精感謝祭ということで、それぞれのパートナーと遊ぶ話。テレビ版とは大幅に異なり、六花とラケルに焦点が当てられている。
途中で衝突するも、最後は足をくじいた六花をイケメン高身長となったラケル人間態がお姫様抱っこする話。
クリスマス会編
→テレビ版とは異なり、マナのレジーナに対する想いが強調されている。
その他
→なんかキュアハートたちがキモ赤子の魔法で赤ん坊にされてキンジコ様が親子愛を取り戻すとかそんな話が最終回らしいです(未見)
あと、単行本の最後のカットには歴代プリキュアが並ぶ絵もあるとか(未見)
②ハピネスチャージプリキュア!
1話編

→だいたいテレビと同じなので略。ナマケルダもこの話から登場。
4話編(未見・tamai-kei様より情報提供いただきました)
→ひめが学校で友達作りをするが、物で釣ろうとするという人として問題ある行為をする話。
テレビ版よりもひめの性格が世間知らずで我儘なお嬢様っぽくなっており、問題点が強調されている。
また、リボンもやや性格的に問題あるキャラとなっている。ナマケルダ登場。
3話編(tamai-kei様より情報提供いただきました)
→誠司とめぐみが恋愛関係にあると勘違いし、神様にばれたら友達でいられなくなると焦ったひめが、なんとか隠蔽しようと奔走する話。テレビ版とは大幅に内容が異なる。
オチはテレビ版とほぼ同様だが、ひめがブルー兄さんの核心に迫る発言をしたりと、伏線を打ってあるのが細かい。
15話編(未見・tamai-kei様より情報提供いただきました)
→ファントムが初登場する話。大まかな流れはテレビ版とほぼ同一だが、キュアプリンセスが救援に入る点がテレビ版と異なる。救援はブルー兄さんでした。
なお、キュアハニーは、漫画版ではこの時点だと未登場である。
11話(+16話)編?(tamai-kei様より情報提供いただきました)
→上記の話の続き。且つキュアハニーが初登場する話。
めぐみが落ち込む神様を見て自分も落ち込み失敗続き。そんな彼女を「人を励ますなら自分も元気にならないと」、そう励ますゆうゆう。
ハチミツは殺菌作用があると言うトリビアも。ナマケルダも出現。
20話~22話まとめ編(tamai-kei様より情報提供いただきました)
→基本的にはこれらのお話の総括版。
秘密を話そうと相談するひめ達の話をめぐみ達に聞かれてしまい、もう嫌われたと逃げ出したひめ。その時フォーチュンと出くわすが、オレスキーの罠に仲良くはまってしまう。その際時間制限つきの二人三脚ゲームを仕掛けられる。
息が合わない二人。当然一向に進まない。その際にひめはめぐみ達の、いおなは姉の幻影を見る。同時にひめはいおなの過去を知り、幻影に苦しむフォーチュンを頭突きで吹っ飛ばし、彼女に謝罪して和解。
改めてコンビを組み、ゲームに勝利!!
以上です。今後のハピプリ漫画版に関しましては、別記事に追加いたします。